ポッター調査隊
今回のポッター調査隊は代用陶器のボタンと戦争中のお話を伺ってきたよ。
ぼく、ポッターくんのなつやすみのじゆうけんきゅうとして、ばんこ焼にかかわる方々におはなしをうかがっているよ。
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伊藤博さん:戦争とばんこ焼 代用陶器のボタン
※「代用陶器」については、「ばんこ焼の歴史」の「せんそうとばんこ焼」のところを読んでみてね!
榊原純宏さん:”われない”土なべのかいはつ
※「土なべ」については、「代表的なばんこ焼」の「土なべ」のところを読んでみてね!
せんそうとばんこ焼:代用陶器のボタン
おはなしをうかがったのは:伊藤博さん (萬古商業会館勤務)
伊藤さんは四日市うまれの四日市そだち。
代用陶器のボタンがくばられたとうじは中学生になったばっかりだったそうだよ。
ばんこ焼のボタンがくばられたのは、昭和20年4月、ぼくが四日市商業学校(旧制中学・いまの橋北中学校のところにあった)に入学してすぐのころ。
当時は太平洋戦争まっただなか。日本は兵器につかう金属がたりなくなり、ありとあらゆる金属があつめられました。
<画像:ばんこの里会館 展示室「陶製ボタン」>
お寺のかね、おなべややかん、仏だんのおりん、火ばちなど町中からあつめられた金属が、いまの橋北小学校(当時の第7国民学校)の運動場に山のようにつまれていました。金属製品をかくしもっていることが許されないきびしい時代でした。
ぼくたちも入学そうそう、先生に「あした、針と糸をもってこい!」といわれ、つぎの日にせいふくのボタン、校章はすべてぼっしゅうされ、そのかわりにくばられたばんこ焼のボタンと校章をそれぞれぬいつけました。
そのころすでに上空にはB29(※アメリカのばくげき機)がばんばんとんでいました。
<画像:「ふるさと橋北」より>
敵である欧米にかんすることや、たたかうことにふてきせつなことはダメとされていたので、教科書も3分の2が黒ぬり。どちらにしても空襲警報がおおくて授業どころではありませんでした。しばらくたつとぼくたち中学生も「学徒動員」で、現在の三滝公園のばしょにあった<東洋紡績四日市工場にあった飛行機の工場へはたらきにいきました。女子は、ひこうきの部品のかどをとる作業、ぼくたちは部品をはこぶ作業。食料も少なくなっていましたから、飲まず食わずではたらきました。
ぼくのお母さんは洋裁がとくいだったので、夜もねないで軍服をつくっていました。ミシンだけはそういう理由で金属だけれどもぼっしゅうされなかったんです。
その年の6月18日の未明、1回目の「四日市空襲」がありました。
警報がなりひびき、B29ばくげき機からつぎつぎにおとされる焼夷弾の中、必死になって海蔵川のていぼうを西へ西へとはしってにげました。ぼくの家族は、りょうしんとおばあちゃん、兄弟4人なんとかみんな助かりましたが、5人の同級生が焼夷弾に直げきされて亡くなったと後からききました。ぼくがなかよくしていたおさななじみもそのうちの1人でした。
<画像:「ふるさと橋北」」より>
夜があけて、だんだんまわりが見えるようになると、あたりには地ごくのような光景がひろがっていました。三滝川の中にはたくさんの死体と、不発だったたくさんの焼夷弾がブスブスとつきささっていて、近鉄のせんろから東側は焼け野原になっていました。防空壕へにげた人たちもいましたが、まわりが焼け野原になるくらいだったので防空壕のなかもすごいあつさっだったんでしょう。おおくがなくなりました。本当によく生きていたなとおもいます。そのときの空襲の火がすべてにきえるまで1週間かかりました。学校、ひこうきの部品工場、海軍の燃料廠などおおきなたてものはほとんど消失しました。
僕たち家族はしんせきをたよって疎開した四郷でせいかつしました。海軍の燃料廠やせんとう機の工場のあった四日市はそのあとも6/22、6/26、7/9、7/24、7/28と計6回の空襲を受けました。同級生の多くも犠牲になりました。ぼくも疎開先からあるいて学校にいってはやけあとの整理や同級生への連絡などをしていましたが、せんとう機の襲撃をうけることもありました。まわりはすべてやけてしまっていて避難するところもなく、必死になってにげたのをおぼえています。
その夏、8月15日に終戦。
ラジオからながれる玉音放送をみんなでききました。お母さんが「今日からやっと寝られる」とつぶやいたのが印象的でした。
ばんこ焼でも、手りゅう弾や硝酸をつかった爆弾の容器などの兵器につかう陶器の試作がされていたようですが、実用化されるまえに終戦になったようです。
とにかく大変な時代でした。
“われない”土なべのかいはつ
おはなしをうかがったのは:榊原純宏さん (榊原窯業所)
ばんこ焼を代表するせい品の1つである「土なべ」。
げんざい、国内でつくられる土なべの70~80%がばんこ焼といわれているよ。土なべの一大産地となるきっかけが、昭和30年代につくられた「陶孫鍋」。”われない土なべ”といわれる理由や開発までのお話をうかがったよ。
さかきばらさん:父の会社は、おもに輸出むけのばんこ焼を作っていました。ある時、アメリカのバイヤーからクリスマスに七面鳥をのせるための大きなお皿の注文がありました。とてもよく売れたので、自社で原料から土をつくる土工場や60メートルものトンネルがまなど、大量に作るための設備をたてました。ところが、しばらくしてほかの産地で、うちのをまねた商品をやすく売りはじめたので、注文が入らなくなってしまったんです。
せっかく設備や人手を用意したのに、かんじんの焼くものがなくなってしまい、父と頭をかかえました。
<輸出用の大皿>
なにかかわりとなる製品を見つけなければ…。
そんなとき、たまたまテレビの料理番組で「なべ料理」を目にしました。しかし当時は、一般家庭の台所の熱源が、炭や薪をつかうかまどからガスコンロにかわったばかりのころで、それまでの土なべではガスのつよい火力にたえきれずにすぐにわれてしまうということがよくありました。
すると、いっしょにみていた父が「土なべ…ええなぁ。そうだ、ガスの火力でもわれない土なべを作ったらええやないか!」と。
それから私達の“われない土なべ”の開発がはじまりました。
ポッターくん:“われない土なべ”というのはガスの強い火力にもたえられて、われないという意味だったんですね!
さかきばらさん:そうなんです。
そもそも、なぜ土なべはわれるんだろう?鉄のなべはガスの強い火力でもわれないのはなぜだろう?
わたしは、ものが熱せられたときにふくらむ「熱膨張」という現象がカギだと思いました。
金属のなべは、うすいし熱が伝わりやすい。熱をくわえると、なべ全体で膨張し、変形にもたえられる。
一方で、土なべは厚いし、熱が伝わるのがおそいため、火のあたっているところと、あたっていないところで、温度差がでて膨張にも差がでてわれてしまう。
それなら、土なべに熱をくわえても膨張しにくくしたらいいのではないか?
熱をくわえても膨張しない原料をさがしていたら、会社でいっしょに開発をたんとうしていた森滉一さんが「ペタライトはどうや?」と提案してくれました。
ペタライトはリチウムをふくむ鉱物で、ゆう薬の原料としては使われていましたが、土にまぜて製品化したのは、たぶん私達がはじめてだと思います。
<展示室にあるペタライト>
ペタライトは日本ではとれないので、ローデシア(現在のジンバブエ)からブロック状のペタライトをとりよせました。すこしピンクがかった透明の石でとてもきれいでしたが、とてもかたい石でした。
そこから土づくりがはじまりました。
ペタライトを粉砕して、粘土やほかの原料との割合、収縮や作業性、生産コストなど、かんがえながら何度も調合して、試行錯誤をくりかえしました。自社に土工場があったのがつよみでしたね。
2~3年ほどしてやっとガスの火力にもたえられる「陶孫鍋」が完成しました。
<陶孫鍋>
ポッターくん:それで全国で大人気になったんですね!
さかきばらさん:ところが、はじめはなかなか売れなかったんです。
売りだしたのは昭和34年だったんですが、当時のふつうの6寸(約18cm)の土なべが30円、陶孫鍋はおなじサイズで80円と2倍以上。「そんなもの売れるわけない」とはじめは問屋さんに相手にされませんでした。
ねばりづよく説明して、なんども交渉かさねたすえ、各地に販売してもらえる問屋さんができ、ガスの火力でもわれないというひょうばんがひろがると、どんどん売れるようになりました。単一商品としては、それまでに例のないほどたくさんの量が売れました。24時間365日トンネルがまでやきました。
父が陶孫鍋のパンフレットに「火にかけて、万が一われたら新品とこうかんします」という文をいれたんですが、けっきょく一度もこうかんのクレームはありませんでした。
<陶孫鍋のパンフレット>
ポッターくん:そのご、さかきばら窯業所さんにつづいて、ペタライト入りの土なべを作るばんこ焼のかま元がふえていきました。
特許(あたらしいアイデアを考えた人の権利をまもるもの。特許がみとめられると20年間はその特許が勝手につかわれないように保護されるよ)をとらなかったのはなぜですか?
さかきばらさん:ほかのかま元に積極的に作りかたをつたえたわけではありませんでしたが、父は「自然と情報がひろまってばんこ焼のブランド商品になればいい」と考えていました。
そのころのばんこ焼は、ほかの産地の模造品もあり、ばんこ焼として特徴的なものがすくなかったようです。
ポッターくん:ペタライト入りの耐熱土は、土なべだけでなく、さまざまな耐熱陶器の開発へとつながっていますね。
さかきばらさん:結果でしかありませんが、もし私たちの開発した土なべが多少なりとも貢献できたんだとしたら、うれしいです。