萬古焼について
萬古焼とはどのような焼き物でしょうか?
ここでは萬古焼の歴史や製法、代表的な商品など萬古焼の魅力をご紹介します。
さらに詳しい萬古焼の歴史については、ばんこグランマと読む「四日市萬古焼史」をご覧ください。
お子様向けにはポッターズライブラリーをご覧ください。
萬古焼とは
萬古焼は、江戸時代中期に桑名の豪商・沼波弄山(ぬなみろうざん)が現在の三重県朝日町小向(おぶけ)に窯を開いたことに始まります。
弄山は自身の作品がいつまでも変わらず残るようにと「萬古」または「萬古不易」の印を押しました。それが萬古焼の名前の由来といわれています。
萬古焼には、食器や花器など生活を彩る器から工業製品の型まで多種多様な焼き物があります。そのバラエティーの豊かさは、「萬古焼の特徴は『萬古』の印があること」といわれるほど。
陶土などの資源が乏しい土地で、先人たちは技術力を磨き、研究を重ね、各時代のニーズを敏感にとらえて様々な製品を作り出してきました。努力と工夫で300年の間、萬古焼の伝統を繋ぎ、日本有数の陶産地として発展してきたのです。
現在の萬古焼の主要な産地、四日市市と菰野町には100社を超える萬古焼の窯元と問屋があります。
ほかにも釉薬や粘土、型、素地など様々な専門業者が萬古焼を支えています。
萬古焼の歴史
萬古焼の始まり
萬古焼の創始者・弄山は1718年に、桑名(三重県桑名市)の豪商であった沼波家に誕生します。沼波家は陶器の「萬古屋」という廻船問屋を営んでいました。幼いころから茶道に精進した茶人であった弄山は、1736~40年の間に、その茶趣味が高じて朝日町に開窯します。
教養人でもあった弄山は、京焼の技法を元に当時珍しかった更紗模様やオランダ文字など異国情緒あふれる意匠の作品を生み出し、好評を博しました。
後に、江戸・小梅村(現在の東京都墨田区)でも開窯して評判となり、当時の将軍の御成りもあったと伝えられています。
弄山が作品に押した「萬古」または「萬古不易」の印は、「何時の世までも栄える優れたやきもの」という意味でおされています。弄山の稼業の屋号が「萬古屋」だったことからともいわれています。
この時期の萬古焼を「古萬古」と呼んでいます。弄山の没後は継承者がおらず、しばらくして萬古焼は途絶えてしまいます。
― 弄山の萬古焼 ―
赤絵の優美な作品が多い古萬古。弄山は京焼の技法を尾形乾山(おがたけんざん)らに学び、内外の茶碗の写し物から作り始めました。
また当時は八代将軍吉宗による洋書解禁の令によって、蘭学の広がりをみた時期でもありました。当時の知識人の多くは外国の文物に憧れ、弄山もまたその一人でした。赤絵の更紗模様や中国の風景、キリンやライオン、象、オランダ文字など異国情緒あふれる作品からも感じることができます。
萬古焼の再興
弄山の没後から約半世紀後、同じ小向で森有節(ゆうせつ)・千秋(せんしゅう)という兄弟が萬古焼の復興を目指し開窯します。
兄の有節は木工、弟の千秋は発明の天才という工芸的才能に恵まれ、研究熱心だった2人は次々に新しい萬古焼を生み出しました。弄山の時代とは変わって流行し始めた煎茶や国学なども積極的に取り入れ、木型を使って急須を成形する型萬古や金を使った鮮やかなピンクが特徴的な腥臙脂釉(しょうえんじゆう)、粉彩による大和絵の絵付けなどを考案しました。
有節らが再興した萬古焼は主に「有節萬古」と呼ばれます。
― 型萬古 ―
有節は提灯を作るための木枠を参考に、得意の木工の技を駆使して型萬古を考案しました。型萬古は芯の棒と周りの8枚に分解する型に、薄く伸ばした粘土を張り付けて成型する製法で、とても軽い急須を作ることができます。また、型に水竜の模様を刻み急須の内側に現れる仕掛けや、ぐるぐる回る蓋の「舞つまみ」、取っ手についた飾りの「遊環」等細かいところにも種々の工夫が凝らされています。
型萬古の急須は東海道の旅人の土産物として大人気となり、当時の桑名藩主も保護奨励しました。
型萬古の技法はほかの地域にも伝わり、二本松萬古(福島県)や足利萬古(栃木県)などその地域に根付いた萬古焼が誕生しました。
四日市萬古焼の誕生
同じころ、四日市末永村の村役だった山中忠左衛門は有節萬古の人気に着目し、村に導入して人々を救いたいと考えました。村は海蔵川・三滝川に挟まれ、度重なる水害で年貢も払えないほど困窮していました。
忠左衛門は私財を投げ打って研究に取り掛かります。四日市の東阿倉川の唯福寺で先に始まっていた海蔵庵窯に手ほどきを受けるなど20年の研究の末、1870年にやっと量産できる陶法を確立させると、村人に道具と陶土を与えて指導し陶工を育成しました。これが四日市萬古焼のはじまりです。
長年の研究を経てやっと確立した生産方法でしたが、忠左衛門は惜しみなく公開しました。それによって四日市で萬古焼に参入する人が相次ぎます。川村又助、堀友直らの優秀な起業家も出現し、手捻りの半助、利助、豊助、木型の庄造、ロクロの佐造など優れた陶工らも育ちました。
四日市港や鉄道の整備に伴い、萬古焼は国内はもちろん、輸出も盛んに行われ地場産業としての基盤が築かれました。
山中忠左衛門、堀友直、川村又助らが輸出に尽力した明治の四日市萬古焼。鳥や象などユニークなデザインののものも多く作られました。当初、原料は垂坂山を中心とした阿倉川、羽津地区の白土を使用しておりましたが、明治中頃には枯渇してしまいます。その後、美濃地方の温故焼との協同により鉄分を含む赤土が開発されました。それが現在の萬古焼を代表する製品でもある紫泥急須へ繋がっていきます。
大正焼の登場
明治末期になると、全国的な不況で萬古焼業界も低迷期を迎えます。
新製品の開発で打開しようと西洋の硬質陶器の研究が始まりました。水谷寅次郎が長年の苦労の末に半磁器式特殊硬質陶器を生み出しました。ちょうど改元の時であったため、「大正焼」と名付けられたこの半磁器は黄味を帯びた温かみのある素地で人気となりました。
また、半磁器は低温で焼成できることから製造する側にも燃料費を抑えられる利点がありました。寅次郎は半磁器の生産技術を広め、萬古焼業界は活況を取り戻します。生産の機械化や硬質陶器・軽量陶器の開発も進められ、輸出も増加して四日市は窯業地として大きく発展しました。
大正から昭和の初めにかけ、明治のころの名人陶工とは異なり、個人の作家として活動する陶芸家も現れるようになりました。大正焼の水谷寅次郎(碧山)、赤絵の大塚斉家(香悦)、人見洞永、田中徳松(東錦堂)、岸園山、笹岡春山などが活躍しました。
―機械化の進展―
大人気となった大正焼。特に火鉢、水盤、大型土瓶の需要が高く、量産するために製造工程の機械化が進みました。美濃や瀬戸から機械ロクロが移入され、石膏型使用による流し込み成型法や圧搾機による製法などが取り入れられました。またこういった技術とともに他産地から四日市へ多くの陶工が移住してきました。
戦中そして戦後の復興から今日
昭和初年、不況で輸出陶磁器が売れ残り、濫売競争が始まります。国産の陶器が共倒れになってしまわないよう、各地に工業組合が生まれ、日本陶磁器工業組合連合会によって、製品の製造と販売の統制が行われるようになりました。
また、山本増次郎による硬質陶器、笹岡伊三郎、塚脇鉄次郎による軽質陶器などの新しい製品も開発されました。
太平洋戦争が近づくと、萬古焼の生産額の半分以上を占めていた対米輸出が途絶え、その他の輸出も減少します。その危機を乗り越えるため、生産を戦時下に必要な製品へ転換し、耐火煉瓦、金属の代わりの代用陶器、航空機用碍子、土管などが製造されました。
四日市の大空襲では、萬古焼の工場や倉庫のほとんどが焼失してしまいました。
終戦後は焦土から少しずつ再開する業者が現れ、業界の再建が進み、1948年の貿易再開の後押しも受けて、復興へと至ります。
その後も輸出向けノベルティー製品や花器、土鍋など時代のニーズを捉えた様々な製品が開発され、国内外の人々の生活の中で使われています。
現在も萬古焼は国内屈指の生産高を誇っており、さらなる発展に向け、技術開発や人材育成などに努めています。
萬古焼の系譜
萬古焼の関係地
―伝統的工芸品の指定―
1979年、「四日市萬古焼」は当時の通商産業大臣から伝統的工芸品として指定されました。指定内容は以下の通りです。
(1)「四日市萬古焼」の統一名称
(2)茶器を主とした用途
(3)伝統的な製造工程
(4)伝統的な技術又は技法
1.ロクロ、押型、手ひねりによる成形
2.透[す]かし紋、びり、千筋など一四種類素地[したじ]の模様付け
3.釉[ゆ]薬掛け
4.盛り上げ、ぼかし、たたき、イッチン、線描きなどの和絵具[わえのぐ]金銀彩絵具[いろえのぐ]による上絵付け
5.原材料
6.四日市市を中心とした製造の地域
ばんこの里会館
ばんこの里会館は、歴史や技法の紹介、体験講座、製品等を通して、萬古焼を体系的に紹介する施設として1998年に設立されました。館内には展示室、陶芸工房、ショップ、レストラン、TSV1973事務局、貸会議室があります。地元の小学生を対象とした陶芸コンクールや萬古陶磁器コンペ、ばんこ祭りなど、年間を通して様々なイベントを催しております。
代表的な萬古焼
土鍋・耐熱陶器
国内生産代位1位、全国シェア80%を占める萬古土鍋。
1959年、ペタライトという鉱物を配合した低熱膨張性陶土が萬古業界で開発されました。家庭の熱源が薪からガスへ移行していた時期で、ペタライト入りの萬古土鍋は高火力のガスでの使用でも「割れにくい」土鍋として全国に広がりました。
現在もIH対応土鍋や高気密土鍋など時代に合った商品の開発に取り組んでいます。
土鍋料理がおいしいのはなぜ?
土鍋は、熱がゆっくり伝わるので食材の持つ甘みと旨味をじっくりと引き出すことができるからです。蓄熱性を生かしたエコな余熱調理も可能です。
動画でみる萬古土鍋ができるまで
「素材のうまみを引き出す優れもの:萬古焼土鍋」
生産量日本一を誇る四日市萬古焼の土鍋。
熟練した職人による土鍋ができるまでの製作工程をご覧ください。
急須
江戸末期、一般に流行し始めた煎茶とともに萬古焼の急須も全国に広まりました。輸出用の奇抜なデザインの急須から、上絵や彫りなどの繊細な装飾が施されたもの、萬古焼の発展に大きくかかわった「型萬古」まで様々な急須が作られてきました。
現在は、鉄分の多い土を使って還元と呼ばれる方法で焼いた「紫泥急須」が全国的にも有名です。
1979年には「四日市萬古焼」として国の伝統的工芸品の指定を受けています。
四日市のかぶせ茶と萬古急須はベストコンビ!
四日市は、かぶせ茶の生産も盛んです。萬古焼の紫泥急須は土の成分が渋みを適度に吸着し旨味を生かすのでかぶせ茶にも最適です。
動画でみる急須ができるまで
「お茶のおいしさを引き出す優れもの:萬古焼急須」
四日市萬古焼の熟練した職人による急須ができるまでの製作工程を動画にてご覧ください。
動画でみるおいしいお茶の淹れ方
萬古焼の紫泥急須は、急須の素材に含まれる鉄分が茶葉の中のタンニンに反応し、渋みを和らげ旨みを引き立てる効果があるといわれています。
ここでは萬古焼急須を使ったおいしいお茶の淹れ方を動画でご案内しています。
BANKO 300thプロジェクト
2018年に迎えた萬古焼の陶祖・沼波弄山翁の生誕300年から20年後の開窯300年までを「BANKO300th」とし、萬古焼の伝統を未来へ受け継いでいくための各種事業を展開・発信しています。
詳しくはBANKO300th事業HPへ。